『不完全な社会をめぐる映画対話 映画について語り始めるために』 河野真太郎、西口想
『不完全な社会をめぐる映画対話 映画について語り始めるために』
河野真太郎、西口想 / 堀之内出版 / 四六判並製 / 368P
「陰謀論」、「ハラスメント」、「ケア」、「ミソジニー」、「障害」etc...テーマに沿って、現代映画を社会的な視点で語るスリリングな対談。
「好きだった監督がハラスメントで告発されたとき、作品にどう向き合えばよいのか?」「一昔前の作品を見るとジェンダー観に違和感を覚えて楽しめない」等、近年多くの人が直面した問題に寄り添いながら、映画と社会の関係を深く見通す。誰もが感想をSNSで発信し、映画を見ることがコミュニケーションに組み込まれつつある現代で、映画と社会はどのような関係にあるのだろうか?映画を「観る」だけでなく、「語る」ことの比重が増す社会における、新たな地平を描く。
RHYMESTER 宇多丸さん推薦!
「社会が変わり、映画も変わった……映画の見方は、変わったか。
我々自身を問い直す、鋭くも愉快な対話集。シリーズ化希望!」
●取り上げる作品
『君たちはどう生きるか』『セッション』『天気の子』『ジョーカー』『パラサイト』『ドライブ・マイ・カー』『プラダを着た悪魔』『万引き家族』『マリッジ・ストーリー』『ドント・ルック・アップ』『バーニング』『カモン カモン』『エイブのキッチンストーリー』『ファントム・スレッド』『アイ・アム・サム』『クレイマー、クレイマー』『シェフ』『SWEET SIXTEEN』『ノマドランド』『コーダ あいのうた』『ケイコ 目を澄ませて』『クルエラ』『メイド・イン・バングラデシュ』『オートクチュール』『ミセス・ハリス、パリへ行く』『幸せのレシピ』『二ツ星の料理人』『ミッドナイトスワン』『スキャンダル』『スタンドアップ』『サンドラの小さな家』 etc...
●取り上げるキーワード
ハラスメント、陰謀論、ケア、男性性、ミソジニー、ネオリベ、#MeToo、トランスジェンダー、マルチバース、障害 etc...
目次
まえがき──映画と社会についての短い個人史 西口想
【対話1】ハラスメントがある世界で、いかに作品と向き合うか
もはやハラスメントの教科書?──『セッション』
「ハラスメントを気にしていたらいい作品は生まれない」というメッセージ
いま見ると気になる描写も多いフェミニズム映画──二〇〇〇年代の代表作『スタンドアップ』
社会進出は進んだけれど……──女性たちのリアル
監督のハラスメントをどう考えるか?
被害者と加害者の訴えは「五分五分」ではない
批判がないと、作品が死ぬ──過去の作品をどう評価するか?
トランスジェンダー表象の変遷と発展──『トランスジェンダーとハリウッド』
かつて批判されたパターンを踏襲する日本のトランス表象──『ミッドナイトスワン』
「クリーン」な現場で生まれる作品はつまらない?
コラム ミーガン・トゥーイーの悪夢 西口想
【対話2】「シャカイ」を描くセカイ系──新海誠作品を読み解く
新海作品で描かれる感性的なもの
キャラクターの背景を描かない
「大丈夫」というメッセージの変質
バニラトラックを描くことが、社会を描くことなのか
村上春樹の男性性と帆高
ミソジニーを脱却できない「男の成長物語」
コラム セカイとシャカイのあいだで──新海誠と宮﨑駿 河野真太郎
【対話3】社会を描くとはどういうことか──ケン・ローチ作品
希望のないラストの衝撃
ラストに至るまでの「希望」
家族しかいないことの絶望
ケン・ローチが描いてきた家族
時事性に回収されない、ケン・ローチの作家性
個人の成功をあえて描かない
「ケアラーなのに悪態をついてごめんなさい」
ケン・ローチが描く女性と男性
ケン・ローチと是枝裕和──作品の違い、社会の違い
映画が社会的であるということはどういうことか
個人を描くことから始める
【対話4】陰謀論は、お好きですか?
『ドント・ルック・アップ』と陰謀論
陰謀論はどう変化してきたか?
陰謀論とキリスト教の切っても切れない関係
ネオリベラリズムと大富豪──ハデンとイッシャーウェル
ヒロイン像の変化──ミソジニー描写を通じて
一九九〇年代を代表する陰謀論映画──『ファイト・クラブ』『マトリックス』『アメリカン・サイコ』
マルチバースと陰謀論──『マトリックス』とマーベル作品
陰謀論にどう立ち向かうか──『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
家族主義的な「愛」に対する違和感
さまざまな映画オマージュが持つ意味
ありえた可能性のなかで最低の人生
映画は常に陰謀論と隣り合う
【対話5】それは誰のための映画か──障害と物語
障害を扱った感動作──『コーダ あいのうた』
感動のために障害者を搾取していないかを考える
『コーダ』は誰のための映画か?
健常者向け/障害者向けという線引きの先に
コミュニティからの離脱をどう描くか──『リトル・ダンサー』と『コーダ』
新自由主義下の障害者政策
社会がつくりだす障害
一般化できない経験にどう向き合うか
「私の物語は私のもので、コーダにしかわからない」
「ろう者として生まれたかった」は何を意味するのか
ケアラーをケアするのは誰か
コラム 『ケイコ 目を澄ませて』と障害者のワークフェア 河野真太郎
【対話6】「当事者」が演じることについて──移民・難民と映画
日本で生活する移民たち──『マイスモールランド』
世代間トラウマを乗り越える──『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』再び
繰り返し主題になってきた世代間トラウマ
当事者性と創作の関係
悪意なき差別を丁寧に描く
「見えていない」が、確かに存在する移民社会
社会派映画はなぜ失敗するのか──手法の難しさ
当事者が表に立つ重要性と危険性
「当事者」とは誰なのか
鍵となる概念──インターセクショナリティ
コラム 現在地としての『ファミリア』 西口想
【対話7】ケアと男性性──苦悩する男たち
ケアと男性性──『ドライブ・マイ・カー』
人間の多重性・矛盾を受け入れること
ホモソーシャリティを切り崩す多声性
暴力性が外部化された人物造形
イクメンになる男、最初からイクメンの男──『クレイマー、クレイマー』『マリッジ・ストーリー』
障害と男性性──『アイ・アム・サム』の障害表象
養育権をめぐる法廷闘争──『マリッジ・ストーリー』
解決されない暴力性
コラム 『カモン カモン』とイクメン物語のゆくえ 河野真太郎
【対話8】映画のなかのミソジニー──能力と傷をめぐって
ポピュラー・フェミニズムとポピュラー・ミソジニー──#MeToo以降のヒット作を読み解くキーワード
失われた地位を「取り戻す」物語
『ジョーカー』のポピュリズムをどう捉えるか?
原作にはなかった階級性、地域性を織り込む映画たち
「格差」に比べて、あまり意識されない「階級」
弱者男性にとっての父親──『ジョーカー』『バーニング』
いまさら父を越えている場合じゃない──『パラサイト』の親子関係
メリトクラシー社会が崩壊した先の女性たち
【対話9】ファッションを通じて何を描く?
映画に衣装は欠かせない
「お針子」映画とブランド創業者の映画
ポストフェミニズム映画の重要作品──『プラダを着た悪魔』
『プラダを着た悪魔』を上書きする『クルエラ』
女性ヴィランの暴力をどう描くか?
仲良く過ごすために毒を盛る?──『ファントム・スレッド』
ファスト・ファッションの時代に映画は何を描くか?
コラム 「透明人間」の夢 西口想
【対話10】おいしい映画──ジェンダー・料理・労働
さまざまな文脈が託される「料理」のシーン
2つの類型──「シェフ」の物語と「料理研究家」の物語
料理の過程を見せる作品/出来上がった皿を見せる作品
料理の描写と性描写の重なり
料理とジェンダー──求められる男性像の変化
不完全な人間でよい、という提案
主婦とバリキャリ女性の対比
半径五メートルの世界を快適に整える現代性
レシピを介して、目の前にいない誰かとつながってゆく
レシピと「コモン・カルチャー」
【対話11】 住むこと、住まいを失うこと
ケン・ローチのエッセンスを継ぐ作品──『サンドラの小さな家』
生活の基盤としての「家」を問う
偶然でしかつながれない?──階級コミュニティなき時代のコミュニティ
ケン・ローチが描く「家」の意味──『SWEETSIXTEEN』
金融危機で消失した家とコミュニティ──『ノマドランド』
公共・福祉の稀薄さから見えるアメリカ社会
家の獲得に紐づいた男性像と、女性のセキュリティ
人間にとって「家」とは何か、「老い」とは何か──『ミナリ』『ファーザー』
「働き続ける主体」という幻想
コミュニケーションとしての映画──あとがきにかえて 河野真太郎