『キミは文学を知らない。 小説家・山本兼一とわたしの好きな「文学」のこと』 山本英子
本と人生 1
『キミは文学を知らない。 小説家・山本兼一とわたしの好きな「文学」のこと』
山本英子 / 灯光舎 / B6変形判上製 / 218P
『利休にたずねよ』を著し、2014年に早逝した京都ゆかりの歴史小説家・山本兼一。彼の妻にして児童書作家・文筆家の山本英子さんが、亡き夫のおもかげを語り、山本兼一と自身の人生を綴ったエッセイ集。
本書の前半では、10年前に亡くなった夫・山本兼一さんが残した取材ノートや手帳を改めて紐解き、自身の記憶を重ねて夫のありし日が語られます。後半になると、次第に内容の主軸が英子さん自身に移り、自身の思い出に残る本や児童書を書くきっかけとなったエピソード、夫への葛藤などが織り交ざったライフストーリーが展開していきます。
「道に迷いそうになったら、日本を探して歩くといい」と語り、この世を去る直前まで物語を書き続けた作家・山本兼一。
子どもたちに、自分のなかの「好き」を大事にして人生を歩んでほしいと想って筆をとった山本英子。
職業作家としての道を歩み、悲喜交々の暮らしのなかでひたむきに楽しく物語を書き続ける二人の日々が、私たちの日常の足跡と重なり、好きなこと、自分のやりたいことを見つめるきっかけを与えてくれるような一冊です。
本書を刊行する2024年は、山本兼一さん没後10年です。
【山本兼一さんの経歴と主な著書】
1999年『弾正の鷹』で小説NON創刊150号記念短編時代小説賞佳作。
2004年『火天の城』で第11回松本清張賞を受賞。
2009年『利休にたずねよ』で第140回直木三十五賞を受賞。
2012年第30回京都府文化賞功労賞受賞。
2014年逝去。
◆主な作品
『白鷹伝 戦国秘録』
『信長死すべし』
『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』
『いっしん虎徹』
『狂い咲き正宗』など
目次
職業は、作家
挑んだ松本清張賞
直木三十五賞、候補は三回
善福寺川で悩む
決意は賀茂川で
キミは文学を知らない
シークエル
前書きなど
【直木三十五賞、候補は三回】より
わたしは山本兼一の作品を書籍で読むことはなかった。
一章は原稿で読み、つづきは掲載紙かゲラ(校正のための原稿)で読んでいた。書籍は姿を鑑賞するために手にしていた。刷り上がったばかりの美しいカバーを眺める。カバーを外し、表紙、見返し、扉の色を見て触る。そして本を開き目次を見る。新刊の鑑賞は、いつもこころがじんわりあたたかくなった。
「原稿で読み」と書いたがこれには理由がある。山本は新作の執筆が始まると、いつもプリントアウトした原稿をクリアファイルに入れ、わたしに渡していた。
「はい、読んで」
軽く渡されていたが、時には担当編集者より早く読むことがあった。これは、わたしに原稿を読み込む特別な能力があるから、ではない。「キミは歩く平均値だから」と言っていた。彼はわたしの普通すぎる感性を信頼していたのだ。書きだしの印象は丁寧に話した。そして全体の感想を短く言う。読みづらいところがあれば、それも伝えた。
「お母さんが好きとか、おいしいとか言ったら、結構な確率で流行りだすんだよ」
こう自慢げに子たちに言うところが、おもしろかった。
数年前から道場に通いはじめた居合道に加え、二〇〇五年からは茶道を始めた。表千家の先生について、大徳寺まで自転車でお稽古に通っていた。この経験が作品になるのは、どれくらい先かな? わたしは娘と息子と話していた。
それは一年後にやってきた。家族の夕飯に間に合うように山本が仕事場から戻った。そして、クリアファイルに挟んだ原稿をカバンから出した。
「はい、読んで」
いつものことだった。でも、あのときの原稿は、特別だった。
タイトルは『利休にたずねよ』。大徳寺でつづけていた茶道のお稽古が、作品となったんだと思った。何回経験しても、新作の原稿を読むことは緊張する。一行目に神経を集中させた。
―かろかろとは、ゆかぬ。
利休の腹の底で、どうしようもない怒りがたぎっている。
かろやかで、すがしい清寂のこころに立ちたかったが、そんな境地からは、ほど遠い。
PHP研究所の月刊誌『歴史街道』で二〇〇六年七月号から連載が始まる作品だった。第一章「死を賜る」とタイトルがついた冒頭は、書きだしから引き込まれた。これは、候補になるかも……、と思った。数行読んだだけで、何を考えている? 自分に呆れて原稿に集中した。
読み終わったわたしはソワソワしていた。早くつづきが読みたい。この感覚が連載中ずっとつづけば、きっと……。
「この書きだし、すごく惹かれる。最後まで心地いい緊張感があって、つづきが気になる。もう原稿は送ったの?」
「うん、仕事場出る前に送った。いつも書きだしは神経使うけど、今回は特別だったな」
満足げな顔でそう言うと、食卓についた
―――――――――
小説家の道を歩もうとする夫に、「小説はあきらめてほしい」と思った自分が、嫌になった。
「一つの息」はいつきれるかわからない。ならば楽しいことをしよう。
物語を書きつづけるために、わたしたちは京都へ移ろうと思う。
夫である山本兼一さんが創作に専念するために、夫婦は生活基盤だった東京から兼一さんの郷里である京都へ引っ越した。兼一さんは、東京時代からのライターの仕事を継続させながら、職業作家になることを目指して原稿執筆の日々を送る。
その道は決して平坦ではなかったが、数年ののち、自作の短編小説の入選や単行本の刊行など小説家としての道を歩み始める。そして、取材と執筆に7年の歳月をかけ、安土城築城に挑む宮大工を主人公とした小説『火天の城』が松本清張賞を受賞し、千利休を今までにない視点で描いた『利休にたずねよ』で念願だった直木賞を獲得した。
その一方で、職業作家であることにこだわり、日々取材や創作に打ち込む兼一さんを傍で見ていた英子さんは、あることを感じる。
「夫が夢中になる作家の世界とは、どんな風景だろうか」
自身も文筆を生業にするライターだった英子さんは、ある日、「自分も物語を書く」と夫・兼一さんに告げる――
版元から一言
「灯光舎 本のともしび」が一区切りして、今度は「本と人生」という新しいシリーズを始めたいなと漠然と考えていた時、山本英子さんとのご縁があった。
ある日、京都の某所で自分の古本を見せびらかしていたときに「あ、山本兼一の小説がある」と言って『花鳥の夢』の文庫を手にした人がいた。僕はすぐさま「山本兼一の小説が好きなんです」と声をかけた。
べらべらと山本兼一の小説を自分勝手に語ってその方との話が広がっていくうち、その人も山本兼一の小説をよく知っていて、たまたま苗字も同じで、その方も児童書を書く作家さんで、とだんだん箱の蓋が開かれるようにその方の素性がわかってきて、最後に「じつは、山本兼一の妻です」という言葉を聞いた時には、僕の方の血の気が引いた。僕はたじたじの態で名刺を交換させてもらって、さようならと言って家に帰った。
それから数か月が経ったころ、ずっと念頭にある「本と人生」の企画を動かしたくなってきて、第1弾をだれに頼むかと考えていた時に、山本さんのことを思い出した。
パソコンを広げて手紙でも認めようかと思ったが、企画のタイトルからしてなんだかあやふやな、雲をつかむような内容でうまく説明ができない。これは会って話を聞いてもらうにかぎると思って「つくもようこ」と書かれた名刺にあるアドレスへ連絡を入れた。
山本さんから、物を書くときによく居座っている喫茶店があるからそこへいらしてください、と連絡をもらって会うことになった。
「まあ、どういったことを書いたらいいのかよくわかないけれど、ちょっと試してみましょう」と言ってもらい、何度か目次構成のやりとりをして、山本さんの尽力のもと数か月後にはたたき台となる原稿が届いた。
その間、生前に山本兼一さんが仕事場としていたお部屋を拝見したり、『利休にたずねよ』関連の資料なども見せてもらったりして、夢見心地の気分が抜けきらず、肝心な本づくりを時々忘れてしまうことがあった。
それが、ちょうど2年前の話。山本さんとご縁があってから、僕の方が遅くなってしまって、今年の春にようやっと本の形に収まって皆さまへお届けできる塩梅となった。
昨年、山本さんから最終の原稿を受け取ったときに「2024年は、ちょうど10年、山本兼一没後10年」と言われた。お互いに意識したわけではないが、この偶然にはやっぱり感慨深い気持ちになる。