『ここはとてもいいところ』 若山香帆
『ここはとてもいいところ』
若山香帆 / 私家版 / 181×128mm / 154P
GOAT文学賞応募作の鰐小説。
以下冒頭書き出し引用
鰐とヨリ
夕方、足どりもかるく家へむかう。
気をぬくとスキップでもしてしまいそうで、ヨリは笑いをこらえながら歩いていく。なんてったって家には鰐がいるのだ。わたしだけの特別な鰐、おもちゃやぬいぐるみじゃないほんもの生きた鰐だ。
大通りをいきかう人たちのだれもヨリを見ていない。犬をつれた若い男女、散歩に出てきた老人、買いもの袋をさげたサラリーマン、ベビーカーをおす母親、はこばれていく子どもはまだまだ遊びたそうにあたりをみまわしている。皆が自分のことに夢中でヨリのことなど気にもとめない。だからスキップくらいしてもいいのかもしれない。でもヨリはそうしない。かわりにただ足をはやめる。鰐はちゃんと部屋にいるだろうか、やっぱりマンションなんていやだったんじゃないだろうか、ひょっとしていなくなってたりしないだろうか。そう考えながら歩く道にはあちこちに昼間の熱が残っていて、通りすぎるたびヨリのからだも熱を帯びる。ゆるくカーブした通りの西側には巨大な庭園がひろがっている。背のたかい木々がくれかけた空をうしろにしてほの暗いシルエットを見せ、青々と繁る銀杏の大木のさきにわずかな夕焼けがかかる。日の入りが近づいてようやくゆるんだ暑さに安心したような蝉の声が降る。ヨリは巣に帰る鳥の群れが飛んでいくのを見上げる。足はとめない。顔をめぐらせて自分と同じように家路をたどるちいさな影たちを見送る。


